私が辿ってきた道

「あっ、喉がひらいている… 力が抜けている…
声帯をストレッチできる… 声が自由になっている…」

信じられない感覚が!
気がつけば、ミックスボイスで3オクターブの声域が完成!

すると突然、
“ピカッ”と稲妻が落ちてきたように、私の中に閃光が走りました。
それは一瞬でしたが、石川 芳のその後の人生を決定づけるものすごい衝撃でした。

「あっ、私はこれを日本に帰って伝えなきゃっ」

まさに天から使命を授けられた瞬間でした。
これが、石川 芳がボーカルの講師を始めたきっかけです。

私はこの職業を天職と感じて、1996年から講師を続けてきました。
本当にありがたいことに、たくさんのご縁に恵まれ、1000人を超える
生徒さんの指導をさせていただきました。

今までも、そしてこれからも、ひとりでも多くの生徒さんに、歌の楽しさを
もっともっと深いレベルで感じてもらい、私が受けた衝撃と同じような感動を
一人でも多くの生徒さんに体験して欲しい、そのための方法を伝えることが、
石川 芳の人生だと思っています。

そして、このことを少しでも伝えられ、生徒さんに感動してもらえた時、
石川 芳は最高の幸福感で満たされるのです。

目次

プロフィール

昭和音楽大学短期大学部 音楽科声楽専攻 卒業
昭和音楽大学短期大学部 専攻科声楽専攻 修了
Musicians Institute (ハリウッド)VIT首席卒業

1991年 中学校教諭二種免許(音楽科)取得
1991ー1992 厚木市立相川小学校 音楽科教諭
1996-2003 MIJapn東京校
1999-2006 エイトプロミュージックスクール
2000-2005 某ミュージックスクール
2003-2008 某ボーカルアカデミー
2004-2008 日本工学院専門学校
2006-2009 エイベックスアーティストアカデミー
2008ー     株式会社VOCAL PLANET

幼少時代

物心ついた頃にはオモチャのマイクを片手に家族の前で歌を披露するのが
日常の光景となっていました。
本人はなりきり度100%で家族に大ウケ。
我が家で大好評のエンターテイメントでした。
毎晩のように「歌って」とリクエストを受け、子供ながらにも、リクエストには
100%答えるというサービス精神を発揮していました。

そして大ウケした最後に家族が熱唱したチビシンガーに贈る言葉は
「いつ聞いても音痴だね~(爆笑)」
ピッチのコントロールなんて知らなかったのですから当然です。
幸いチビシンガーには「音痴」の意味が分かりませんでした。
分かっていたら大変なことです。
きっとトラウマになってしまって、人前で歌うことにコンプレックスを持って
しまったかもしれないですし、学校に上がれば、「音楽なんて大嫌いだー」
なんて言っていたかもしれないですし、この職業に就くこともなかったかもしれません。
そう考えると、意味が良く分からなくてホント救われたのでした。

今考えると、家族が大笑いしていたのは、ものすごい音痴なのに、
熱唱するその姿が大ウケしていたと推測できるのですが、
当時はそのリアクションの大きさに、「私はきっと素晴らしいんだ」と
勘違いしていたわけです。

この頃から「自分勝手なポジティブ思考」は芽生えていたんですね。
あー、なるほど。

なにはともあれ、「チビシンガー無知の勝利」
ちなみに最初に買ってもらった記念すべきレコードは、当時大ヒットしていた
♪「およげ!たいやきくん」

幼稚園入園後まもなく、お友達の家に遊びにいくと、
初めて目にする威厳のある輝きを放っている大きくて素敵なものがありました。
石川 芳は子供ながらに一瞬でそのものの虜になってしまいました。

それが「ピアノ」の出会いでした。
その日から「ピアノ習いたい」「ピアノ習いたい」と駄々をこねまくる日々が始まります。

「どうせ続かないんだからダメっ」とスパっと否定され、相手にしてもらえず、
しかし、食い下がる、食い下がる。
半年くらい粘ったでしょうか?
「じゃぁ、習いに行ってごらん」とやっと親が折れてくれました。
しかし、どうせ続かないから、という理由で、親戚の家から誰も使っていない
オルガンをもらってきてのスタート。

あまりに熱心に練習する姿に親が感動し、
「この子は将来ピアニストになるかもしれない」と勝手に勘違いし、
ピアノを買ってもらえることになりました。

ピアノを習い始めるとすぐピアノが我が家にやってきました。
念願のピアノが。。。

すると、願望が達成されて、全然練習しなくなりました。
友達と遊ぶことで忙しいですから。
石川 芳の目的はピアノを買ってもらうことであって、
ピアノを習うことではなかったのです。
子供なのでその違いが分からず、ピアノを習えば、
ピアノを買ってもらえると理解していたんでしょうか。

言い出したらきかない頑固な性格と、熱しやすく冷めやすい性格も
この頃から立派に確立されていました。
しかしこの先、練習しない私と母のバトルは10年続くのでした。

中学校時代

この頃はアイドル黄金期。
石川 芳のアイドルは「聖子ちゃん」(古過ぎて分からない人ごめんなさい)
そして、親友は「明菜ちゃん」派。
ここでもまた上手く別れました。

この頃は、四六時中歌を口ずさんでいましたねー。
気分的には、1日24時間、1年365日歌ってる。
もうまさに、歌が酸素みたいな感覚です。

そして、歌手になってデビューしたいなんて野望を抱き始め、
オーディションなんてものに、チャレンジしたのもこの頃。

東京の会場まで審査を受けに出かけたりして、ちょっとドキドキ感を味わったり、
ほんのり夢をみたりしていましたが、残念ながら幸運の女神は
私には微笑まなかったんですね(笑)

石川 芳の人生は、この先に訪れる天職との出会いに向かって
レールが敷かれていたとしたら当然の結果ですね。
なんて負け惜しみを少々言ってみたり、
この頃はまだ美貌は開花していなかったのよねーなんて図々しいことを
言ってみたりして... さぁ、次へ!

高校時代

幼稚園から習い始めたピアノを中3で一度やめていたのですが、
時間に余裕ができたので、ピアノのレッスンを再開します。高1の秋。

この時にピアノを習いに行った近所の音大生、寺本先生(仮名)との出会いが
石川 芳の人生の転機でした。

実は、寺本先生(仮名)が音大受験を勧めてくださり、いろいろ段取りをしてくださったのです。
まさに人生の転機での大きな出会いでした。

その直前の高校での進路面談

高校の担任チャック先生(仮名)
「進路の希望は?」
石川
「エヘッ、お嫁さーん」
チャック先生(仮名)
「じゃぁ、良い旦那さんと結婚するには、
良い大学に行って、良い会社に就職しないとダメなんだよ」

当たっているような当たっていないような、とりあえず、進路指導的なことを
教えてもらいました。
(ふーん、なんだかピンとこないわねー、大学進学して就職なんてしたら
お嫁さんに行くの遅くなっちゃうし、高校3年生の次はお嫁さんだからね。)

チャック先生(仮名)は、こんなファンタジーな世界を彷徨っている女子生徒に
やさしくつき合ってくれた包容力のある先生でした。
しかも、彼氏いないこと知っていたくせに。(笑)

こんな私だったのですが、そのアドバイスで、音楽で進学できる希望が生まれたのでした。

「進路希望はお嫁さーん」のまま高校卒業したら大変なことになっていたかもしれません。
その前に両親が慌ていたかもしれませんね。

ピアノは練習嫌いだったので、あまり上手くなかったのですが、やっぱり歌は大好き♪
それから、全く縁のなかった未知の世界へ飛び込んでいくのでした。

音大時代

最初の1年は志望校ではなかったですし、翌年もう1度受験するつもり
だったので、なんとなく馴染めず、楽しくなかった記憶があります。

そして、一番大事な声楽の先生が、とても意地悪な人で苦労させられる
運命が待っていたのでした。

この池田先生(仮名)は、とてもプライドが高く、勘の鋭い人で、
学校以外でレッスンに通っていることを察し、軟禁状態にされることも数回ありました。

1年の時は学校以外に受験用のレッスンも別に通っていました。
それは大学の先生には内緒です。

学校のレッスンのあとに受験用のレッスンの予定を入れていると、
本来は自分のレッスン時間が終われば帰っていいはずなのに、
「ありがとうございました」 と挨拶して帰ろうとすると、
「待ちなさい!次の人のレッスン見なさい」 と言われ、困っていると、
「何か用があるの?」 と睨まれ、
「あぁぁ、はい」 としどろもどろに答えると、
「あなたは声楽を勉強しに来ていて、その声楽のレッスンより大切なものが
他にあるの?ないわよね。そこにいなさい」
と言われ帰れず、次の人のレッスンが終わったので、一緒に帰ろうとすると、
「次の人のレッスンも見なさい」 とさらに軟禁され、
次にレッスンを受ける予定の先生に電話をかけに行くことさえ許されず、
という意味のないイジメに何度も遭いました。

その日の池田先生(仮名)のレッスンが終了した時点でようやく解放され、
急いで次の松本先生(仮名)に電話をかけ、涙声で事情を説明すると、
「いいわよ、今からいらっしゃい」 とおっしゃってくださり、
辿り着くと、何も言わず手作りのサンドイッチを出してくださる本当にやさしい松本先生(仮名)。
ますます、鬼のような大学の池田先生(仮名)にはついていきたくないと思うのでした。

音大の勉強と受験対策というのは違って、もともと落ちこぼれの石川 芳には
両方を両立させることはかなりの負担で、次の年も志望校を受験したものの不合格。

人生は終わった。。。
真剣にそう思いました。
親に何て言おう...先生に何て報告しよう...
電車の中でずっと泣きました。
絶望と孤独の大雨が私にだけ降っているような、そんな帰り道。
私ってやっぱり才能ないんだ...。

しかし音大の成績は手を抜かなかったのでかなり良いという現象が起きました。
もっと手を抜いていれば逆の結果になっていたかも...なんて思ったりしますが。
その後、そのまま何もなかったかのように2年に進級。
それからは、私自身がふっ切れたこともあり、まわりのお友達とも、
しっくりつきあえるようになりました。

短大だったので2年で卒業。
その後同じ大学の専攻科に進み1年間さらに勉強しました。
専攻科に進んだのは7名。
その中でも石川 芳は特に飛び抜けた存在というわけではなく、
可もなく不可もなくという中途半端な存在でした。

この最後の1年は、本当に充実した1年でした。
それは、入学以来2年間嫌々つき合っていた意地悪な声楽の池田先生(仮名)から、
(専攻の先生と合わないというのは致命的なことなんです)
とても素敵な歌声をお持ちの性格の明るい宇津井先生(仮名)に変更したことでした。

宇津井先生(仮名)は2年の時のドイツ歌曲の授業の担当で、私がこの先生の歌声に
惚れてしまい、専攻科進学のタイミングでお願いしました。

すると、宇津井先生(仮名)はとても喜んでくださり、事務手続きの仕方、
池田先生(仮名)への対応の仕方を親切に教えてくださり、見事シフトチェンジに成功。
敵に悟られぬよう手際よくことを済ませることが大事で、音大ということろは
かなり閉鎖的な世界なので、こういうことは御法度なんです。

私の知り合いは先生の変更を事務に申請中に元の先生にバレて、阻止されたあげく、
その後いじめられるという悲惨な運命を歩んでいました。

私も学内で元の先生に会わないよう、細心の注意を払って行動していました。
元同じ門下だった知り合いが、意地悪な池田先生(仮名)が門下生の前で、
私の悪口を言っているということも聞きましたが、
性格が明るくて素敵な歌声の宇津井先生(仮名)のレッスンを受けられるようになり、
今までになく張り切って練習やレッスンができるようになったので、そんなことは
全然問題ありませんでした。

しかし、運命というのは恐ろしい。
1年間、細心の注意を払って行動してきたのに、最後の最後、声楽の修了試験の日。
出番も近づき、試験会場へ向かう途中の廊下で、
なんと、池田先生(仮名)とバッタリ。しかもそこには先生と私だけ。
先生は一瞬立ち止まって、振り返り、ものすごい形相で私を睨み、

ツカ・ツカ・ツカ
と近づいてきます。

「あなたね、自分が何したか分かってるの?
こんなことされたの私人生で初めてよ。しかも私が一番嫌いな人に変えるなんて
さぞ上手くなったことでしょうね。どれくらい上達したか聴かせてもらうわ」

1年間溜めていたものをようやく吐き出したという感じで、
言いたいことを言って、またツカ・ツカ・ツカと試験会場へと去って行きました。
いろいろ言われても、私としては充実した1年を過ごせたと言う満足感がったので、
全然気になりませんでした。
むしろ、1年も経つのに、昨日のことのように覚えていて、なんて執念深い人なんだろうと
感心させられました。

この年もう一つ印象深い出来事がありました。
それは中学での教育実習。

当時、人生で一度はやりたい職業、それが中学の教員でした。
中学時代といえば、多感な時期。
私がその頃関わった先生たちが酷かったことで失望したという経験があり、
私が中学校の先生にならなければ...という勝手な思い込みがありました。

実際、教育実習に行ってみると、まわりの教育実習生に比べて、
全てにおいてスムーズにこなせてしまう自分がいるのです!
生徒たちともどんどんコミュニケーションがとれるし、
他の実習生よりはるかに生徒たちに愛情を感じているし、
授業は初めてとは思えないくらい順調で、毎日なんでこんなに楽しいのだろう...
今まで落ちこぼれだった私が、まるで“水を得た魚”のような状態でした。

石川 芳が進むべき道・・・

それを心のどこかに、そして確かに刻んだ瞬間だったのでした。

教員時代

晴れて専攻科も修了し、もう学生ではなくなりました。
そして、近隣の市の教育事務所へ書類を持って出かけ、その場で軽く面接。
翌日教育事務所から電話が入り、産休に入る先生がいる小学校の音楽の教員に
なることが決まりました。

喜びと同時に、中学校じゃないんだ...という残念な気持ち。
しかし、それから1年間、石川 芳とわんぱく小僧たちとの奮闘が始まるのでした。

その小学校は、元気が有り余った、よく言えば子供らしい子供たちばかりの
宝箱の様な場所でした。
休み時間は外で元気に遊び、帰ってくると汗びっしょり。
もともと子供が大好きだったので、子供たちの扱いはなぜか慣れていました。
大好きな音楽を元気な子供たちと毎日やれるだけで楽しいのに、その上給料が
もらえるって、なんてラッキーなんだろう...と信じられない感覚でした。

1日24時間、1年365日、頭の中は子供たちのことばかり。
子供たちのためなら、苦手な早起きも辛くない。
朝はまるっきりダメな私が、毎日朝5時に起き6時過ぎに家を出て、7時に学校に行く、
そんな生活でした。

学級崩壊という言葉がまだなかった時代に、学級崩壊を経験できたのは、
今となっては貴重な思い出です。

前の授業の終業ベルで音楽室になだれ込んできて、石川 芳のまわりに集います。
そして、なんだかんだとおしゃべりしてくれて、とってもかわいい。
しかし、始業のベルが鳴った瞬間、パーっと思い思いの場所に散らばり、
それまでかわいかった子供たちが豹変していくのです。

プロレスを始める子、かくれんぼを始める子、お絵描きを始める子、
楽器をめちゃくちゃに鳴らし始める子、音楽室が野獣の園に変わってしまうのです。
単にお勉強したくないという素直で短絡的な反応なのですが、
本気で、4階の音楽室がいつか落ちる と心配でなりませんでした。

育休を取っていらした先生が復帰なさるので、1年でこの学校を去ることに
なるのですが、感動をしない日はなかったと言える程、毎日子供たちから
たくさんの笑顔と感動をもらいました。

教員としては全然未熟でしたが、子供たちが大好きと言う気持ちと、
音楽の楽しさを感じて欲しいという情熱だけは溢れていたので、
子供たちにもそれが伝わっていたのでしょう。
自分で言うのもなんですが、かなり人気者でした。
全力で毎日を駆け抜けた そんな貴重な1年。
この小学校で関わった子供たち、そして子供たちとの想い出は、
石川 芳の人生の大切な宝物で、今でもキラキラ輝いています。

そして、この1年でさらに深い確信を得ました。

それは、音楽の楽しさを伝えることが私の幸せなんだ!!
この気づきを胸に人生の新たな模索が始まるのでした。

アメリカに夢中時代

教員を離任してまずやったこと、それはアメリカへの一人旅でした。
中学の音楽の授業のなかで、組曲「大峡谷(グランドキャニオン)」を
鑑賞した時、その音楽を聴きながらグランドキャニオンを想像していたら、
ここにいつか行こう!という決意が生まれました。

そしてその日が来たのです。

人生の中で1度は行ってみたかったグランドキャニオン。
当時の私にしては十分すぎるほどボーナスももらえたし、時間もある。
英語なんて全く喋れず、旅行会話の本を片手に珍道中でしたが、
グランドキャニオンはやっぱり感動でした。
一秒ごとに、そして一歩歩みを進めるごとに変わるその表情は圧巻。
これをきっかけにアメリカに夢中になっていきます。

帰国後、アメリカに行きたい病を煩いつつ家事手伝い生活。
数ヶ月後、あるテレビ番組でわたしの好きなDEF LEPPARDの特集を
していたので見ていました。すると番組の最後に、
DEF LEPPARDのNYライブに3名様ご招待 という告知がでました。
大好きなDEF LEPPARDに大好きなアメリカ。
もちろん速攻応募しました。

結果、見事“当選”!!
前回の旅行から丁度半年で、再びアメリカに行けたのでした。しかも無料で。
DEF LEPPARDのライブ前日は、招待してくださったレコード会社の方が、
プリンスのライブに連れて行ってくださいました。
NYでプリンスのライブなんて、これもかなり刺激的でした。
肝心のDEF LEPPARDライブ当日は、バックステージに私たちの控え室もあり、
サウンドチェックから見学、メンバーとの対面もあり、
人生でこれほど緊張したことはないだろうと言うくらい緊張しました。
本番のライブも大盛り上がりで楽しい想い出になりました。

帰国後は夢うつつな日々を過ごしますが、間もなく自分の人生を
さらに変える決断に向かって行くのでした。

留学

小学校での1年間の教員生活で、教員はもうやり切ったという達成感があり、
教員に未練はありませんでした。

その次のステップとして、この先は歌をもっと専門的にやりたいという
気持ちになり、この頃はクラシックよりも洋楽のポップスに夢中で、
自分の歌い方を、声楽的な歌い方からポップス的な歌い方に変えようと決意します。

それから、日本のボーカルのスクール探しに没頭するも、
なかなか納得できるところが見つからず、気がつけば、日米教育委員会に
足を運んでいました。
日本には満足できるスクールがない、ならばアメリカへ!!
そんな流れでした。

そこで、なんとなく求めているものを提供してくれていそうな専門学校を
見つけることができました。
カリキュラムの内容も授業料も納得。
それは、MUSICIANS INSTITUTE でした。

そして、そこでまず浮上してきた問題が、英語。

声楽科はイタリア語とドイツ語が必修なので、高校卒業以来遠ざかっていて、
海外旅行の英会話がしどろもどろ...な状態。
今すぐにでもアメリカに飛んで行きたい気持ちでしたが、
ここは一旦、はやる気持ちを押さえ、1年間まず英語を勉強して留学することに
決めました。本当に待ち遠しくて辛かった1年。

そして、目的の学校から資料を取り寄せ、英会話スクールを探して、
学生ビザの取得方法を調べ、下準備OK!

さぁ、両親に話しましょう。
ということで、ある日の夕飯の時に「来年の夏に留学する」ということを話したら、
「なにバカなこと言ってるの」
以後絶句状態で相手にしてもらえず、
そのうえ母親は食事の途中なのに、家を飛び出して行ってしましました。

なんだか嫌ーな空気が我が家に流れ、残った父ともなんとなく気まずいので、
その話は続けられず...。
1ヶ月後、父親の前頭部に円形脱毛症発見。
父に教えてあげると、「知っている」とあっさり。
もしや...時間的に考えて、私が留学する話をしたせいかしら...と思い、
何も言わないけど、父も反対なんだと悟りました。

以後、留学の費用は親には頼れないと判断し、自分で捻出しなければと
バイトに励みました。
水商売以外で一番時給が良いバイト、迷わずそれに決めました。
月曜日から金曜日まではオフィスコーヒーの飛び込み営業。
営業のノウハウなんて何も教わらずに、コーヒーメーカーとコーヒーの粉を
持たされ、ターゲットのエリアに連れて行かれ、
「はい、このビルね。上から下まで全部訪問していきて」と指示されます。
(事前に下調べしているわけではないので、ドアを開けたらやくざの事務所、
なんてこともありました。危険です。)

そして、言われた通り、一部屋ずつノックして、アポなし飛び込み営業の開始です。
無謀過ぎます。
運良く中に入れてもらえたら、システムを説明して、カバンからコーヒーメーカーを
取り出し(怪しい過ぎ)、他所のオフィスでコーヒーを入れて飲んでいただく。
あり得ないと思えるバイトでしたが、これも留学の資金を用意するためと
割り切り頑張りました。
結構みなさん仕事中なのにやさしく接してくださいました。
今の石川 芳だったら、「仕事中ですから迷惑です」とか言ってしまいそうなんですが...。

それから、土日はイベント系のバイトをしてました。
休日なんて言葉、この頃は忘れていました。
若いってすばらしい!

年頃の女の子が、洋服も買わず、友達の誘いも断り遊びにも行かず、
一切の無駄使いを排除。
お金をかけるものといえば、英会話のレッスン代と英会話の教材代、
歯科治療費。CDのレンタル料。それ以外は貯金な生活。

もっと歌が上手くなりたいという私なりの夢があるから、
そんな灰色な生活も、私の中ではごく当たり前ことでした。
それよりも、この先の希望しか見えていなかったので、迷いは全くありませんでした。
この時の経験がその後の私に強く影響しているような気がします。

ある意味、強烈な1年だったのでしょう。
今振り返ると 猪突猛進という言葉がピッタリです。

親に協力してもらえないので、一人で頑張らなければと黙々と準備を
進めていましたが、同居している親も、海外から届く郵便物を目にしてしまうので、
私が一人で勝手に準備をしていると分かっていたようで、
留学を目前に控えたある日、母親がついに、
「向こうへ行って住むところはどうするの?」と切り出してきました。
はい。親が折れた記念すべき瞬間でした。

反対しても絶対きかない娘の性格を一番良く知っている両親。
反対しても行ってしまうなら、その後の生活はどうなるか心配した方が良いと
諦めてくれたようです。
その日からは留学について両親とも話せるようになったのでした。
そして、大きな希望を胸に、平和的にロスへ旅立つのでした。

まずは部屋探し。
近所を散策しがてら物件を見ていると、ある建物から男性が駆け出してきて、
「丁度空いている部屋があるから見て行かないか」と声をかけてきました。
そのアパートのマネージャーでした。
外観がとてもかわいいく、中庭に噴水があるお洒落なアパートでした。
部屋も一人暮らしでは持て余す程広く、暖炉(といっても電気)まであって即契約。
そしてしばらくは、電気、ガス、水道、電話の手続きに煩わされたりしましたが、
もうバイトをする必要もなく、心ゆくまで歌の練習が出来るようになり、まさに自由を
満喫していました。

いよいよ学校のガイダンス期間が始まり、
いろいろな書類を渡され、それを読みこなすのが一仕事、いやもっと大仕事。
そして授業が始まると、ビックリ!
衝撃の事実が突きつけられたのでした。

英語がさっぱり分かりません。
左耳からに右耳へ「のぞみ」が通過したかのような感覚。
話を聞き終わった後、すっきり爽快。なにも残りません。
たまに2、3個の単語がキャッチできれば大喜び。
1年間で「○ーオン」に60万近く投資したのになぜ??

気がつきました。
英会話スクールの外国人の先生は日本人に理解しやすいように、
非常ーにゆっくり、そしてクリアにお話ししてくださっているということを。

ガーーーーーン。ショックです。
英会話スクールで聞いて馴染んでいた英語と、ネイティブ同士の英語は
全く違う言語でした。
そうならそうと教えてくれなきゃ困るじゃない!!
英会話スクールの先生の英語は大体理解できていたので、勝手に安心して
いたのに...。ひどい! 罠だ!罠!!

しかし、ここでメゲてはいられません。
すべての授業で最前列中央に陣取り、先生の話を録音しました。
そして家に帰って全部聞き返し、分からない単語は何言ってるんだろう?
と想像しながら辞書を引き、解明して行くという地道な作業を毎日やりました。
1時間の授業を解明するのに3時間。寝る暇ありません。

ロスと言えば、1年中“夏!” ビーチにヤシの木にローラーブレイド、
そう決めつけて、夏服しか持っていかなかったら、だんだん肌寒くなってきたのです。

そうなんです、ロスにも日本ほどくっきりではありませんが、
春夏秋冬があったんです。イメージって怖いです。
ずっとサンダルで過ごせると思っていたから靴下もなく、
でも買い物に行く時間もなく、仕方なく実家に電話をして靴下も含め
冬物を送ってもらうように頼みました。

そんなこんなで、朝から夕方までは学校で授業。
家に帰ってきて練習。3~4時間、5時間くらいやるときも、ザラにありました。
その後、少しでもリアルタイムで授業を理解できるよう、翌日の学科の授業の単語の予習。
そして、その日録音した授業の解明作業。

授業が始まってからあっという間にガリガリに痩せてしました。
ゆっくりご飯食べる時間もあまりありませんでしたが、食べると眠くなって
練習できなくなると思ったので、その日やることが全て終わってから食事を
しようと決めていました。

しかし、1日中わけの分からない英語での授業で神経をすり減らし、
家に帰ってきてからは練習と予習復習。
全て終わる頃はすでに深夜で、お腹もペコペコなんだけど、もう寝たい...バタン。
という状態だったのでした。
よく生きていましたね。
ホント若いってすばらしい!

英語力は3ヶ月ごとに少しずつ楽になっていくのが実感できました。
なんとなく慣れてくるものなんでしょうね。

そして、肝心の授業は日本にはない充実したものでした。
発声法に関しても一貫したものがあって、それをプライベートレッスンで
身につけていくのですが、今まで私が教わってきたことの根幹が崩れ去りました。

「お腹を押すな」と注意されるのです。
「力をぬきなさい」とも言われます。
もうめちゃくちゃパニックです。
お腹で支えず、どうやって声をだすの??
力なんて全然入れてないのに、なんで注意されるの??

でも、今までの歌い方を変えようと決意してハリウッドまで来ているわけですから、
ここは取りあえず、先生に言われるままやってみようと覚悟を決め、
ただひたすら黙々と練習をしました。

最初は上手くいかず、歌っても納得できない悲しい時期もありました。
今思えば、古い歌い方から新しい歌い方へシフトチェンジしていく過程で、
どちらにしても中途半端な状態の時期だったのだ思います。

しかし、この発声のメカニズムを学ぶことは、発見の嵐でした。

“喉をひらく”とか“声帯のストレッチ”とか”軟骨、筋肉の知識”
“共鳴の仕組み”“ビブラートの仕組み”などなど、

私にとっては、もうヨダレが垂れるほど興味深い内容でした。

今でこそ、発声のメカニズムについて喋りだしたら止まらない私ですが、
当時はカリキュラムは全て英語ですし、医学用語がバンバン出てきて、
私が日本から持っていった英和辞書には載っていない。
何度調べても載っていない。
(一度調べて載ってなければないのに...諦められず何度も調べる)
アメリカ人に聞いても「知らない」と言われ、
アメリカ人も分からない英単語って何なんだーと絶望したりもしました。
まぁ、喉頭蓋とか甲状軟骨とか輪状甲状筋と日本語で言われても分からないから
仕方ないか...。と今では思います。

この内容を理解するために、カリキュラムと辞書をいつも持ち歩いて、
授業の合間に時間があれば、いつでもこの解読作業をしていました。
もちろん家でもめちゃくちゃ格闘していました。
辞書に載っていない単語は英語のまま理解する。
そんな技も身につけました。ほとんど英語のまま理解しましたが...。

この学校ではパフォーマンスの指導も充実していて、とても刺激的でした。
歌うことってこういうことなんだー
と、今でもその精神は私の中で大事なものであり、
石川 芳の歌に対する基本的なスタンスはこの時育まれたものなのです。
歌うってこういうことなんだ...分かっているようで身に付いていない
大事なものを根付かせてもらえた気がします。

「伝える」

それがすべてです。

そして、頑張った甲斐があって、めでたく首席で卒業することができました。
卒業する頃はもう自分の歌がかなり変わったことが実感できるレベルになり、
感激していました。
ここで教えてもらったテクニックは本当に凄い、これ以外にはないと思える程
インパクトのあるものでした。

喉がひらいている...

力が抜けている...

声帯をストレッチできる...

声が自由になっている...

信じられない感覚が芽生えました。

すると、ある日突然、
“ピカッ”と稲妻が落ちてきたように、私の中に閃光が走りました。
それは一瞬でしたが、石川 芳のその後の人生を決定づけるものすごい衝撃でした。

「あっ、私はこれを日本に帰って伝えなきゃっ」
まさに天から使命を授けられた瞬間でした。

それまで、歌がうまくなりたいという一心でひたすら頑張ってきたので、
これを人に教えるなんて全く考えたことがありませんでした。
考える余裕が無かったと言った方が正しいかもしれません。

でも、思い起こせば、私は音楽の楽しさ、歌の楽しさを生徒と分かち合うことが
大好きでした...。
中学での教育実習の時も、小学校での教員時代も、100%充実した時間を過ごしていたし
石川 芳にとって、とても自然でやりがいを感じる魅力的な仕事でした。

“歌”と“教える”というふたつの大好きなことが運命的に出会い、
ひとつに結びついた決定的瞬間でした。

この後、ヴォーカル講師というゴールを目指して猛ダッシュするのでした。

人に教えるにはどうしたらいいんだろう?
きっと講師になればいいんだ。
じゃあ、講師になるにはどうしたらいいんだろう??
あっ、そうだあの人のところへ行ってみよ!!

あの人とは、卒業が迫ったある日、学校に行こうと家を出たところ、
アパートのマネージャ―がオフィスから私を呼びました。

そして、そこに行ってみると、日本人の男性が二人いて、
私の部屋の隣に越してくる日本人だと紹介してくれました。
二人の男性のうち年配の男性が「MUSICIANS INSUTITUTEに通っているの?」
と聞いてきたので、「そうですけど、なんでその学校を知ってるんですか?」と
驚いて尋ねました。

その男性はニヤッと笑って「ちょっと知っているんだよ」と答えてくれました。
私は遅刻しそうだったので、「宜しくお願いします」と挨拶をして切り上げ、学校へ走りました。
その日本人はなかなか隣へは引っ越してきませんでした。

しかし数日後、驚くべき場所で再会したのでした。
それは 私が通っている学校。

あれ?この前のおじさんだ。なんで学校にいるの?????
実は、そのおじさんは日本の楽器屋の相談役でした。
その楽器屋は日本で音楽学校も経営していたので、
私が通っていた学校を買収するため現地に来ていたのです。

「アパートでお会いしたの覚えてますか?」とお聞きしたら、
「あーあの時の...」と覚えていてくださり、
それから結構気さくにおしゃべりさせてもらっていました。
相談役にもなると実務をすることはないので、
現地の学校にいてもそれほど仕事もなかったのでしょう。
日本人の学生とよくおしゃべりに興じていました。
その中でも、私は一度社会人を経験していたり、留学前の無謀な飛び込み営業で、
小さいながらも会社の社長さんたちと話す経験をしていたので、
その相談役と会話することも自然にできたのです。

しかし、高校卒業したての人だと、中高年の偉い人と話すのは苦手のようで、
「なんでそんなにしゃべれるの?」と不思議がられたほどでした。
そんな偶然の出会いがあり、
そうだ!この人にお願いしてみよ!!と、ちょっと一般の学生では近付き難い
重々しいドアの相談役室へ突撃。
得意のアポなしです(笑)。

ドアをノックすると、日本人男性の秘書と思われる人が現れ、
・石川
「○○さんいらっしゃいますか?」
・男性
「ちょっと待ってくださいね」

そして、相談役が現れました。
・相談役
「どうしたの?」
・石川
「あの、私ボーカルの講師になりたいんですけど」

といきなり言ってしまいました。単刀直入すぎです。

するとビックリするほどすんなり
・相談役
「じゃぁ、ついでの時でいいから(秘書に)履歴書届けておいて」

あー、ウッカリしてました。
・石川
「履歴書よね...すっかり忘れていました。でも常識だわ。
突撃することに頭がいっぱいで...。着の身着のまま訪問してしまいました。
すみません。」
・相談役
「日本に帰ったとき担当に渡しておくから連絡が行くと思うよ」

ほぼ確実な手応えを得られ、ヴォーカル講師になるための最強のツテを手に入れたのでした。

その後、ボーカルの先生にそのことを話すと、
「それなら、これからは教える勉強もしましょう」と、とても積極的に協力してくださり、
私がレッスンに行く日は、他の生徒さんが受けているレッスンを見学させてもらい、
レッスンが終わるたびに先生が「この生徒は××だから○○するの」という具合に教える
秘訣を伝授してくださいました。

そんな風に、自分のためのテクニックと、教えるためのテクニックを学んでくることが
できたのでした。
これはとてもラッキーなことだったと思います。

こうして石川 芳が講師になるための準備は着々と進んだのでした。

そして、帰国の1ヶ月程前、いつも通りレッスンに行った日のこと。

レッスンが終わるころ、先生が
「あなたの声は完成したわ」
「これやってみて」
といつもと違う初めてのスケールのデモンストレーションをしてくれました。
それに続いて私も歌ってみると、特に難しくもなく自然にこなせました。

すると、先生が
「ほらっ、あなたの声はもう(最高音から最低音まで)繋がっているでしょ。
完成したわよ」

と、石川 芳の手を握りしめて、号泣し始めました。

こうして私の3オクターブのミックスボイスは完成したのでした。
私は今まで淡々とレッスンや練習をこなしてきたので、完成したと告げられたときも
意外な程淡々としていて、先生の感動とは正反対のリアクションでした。

そして、先生が落ち着いてから私に話してくださいました。
先生が教えた生徒で声が完成したのは私で3人目であるということ。
そして、以前の二人は先生の恋人だったということまで。

なので、個人的な恋愛感情がない間柄で声が完成した生徒は、
石川 芳が初めてだったのです。

石川 芳が今あるのは、留学して良いものを学ぶことができたということが
とても大きかったと思っています。

そして、このボーカルの先生MS. Murrayとの出会いが石川 芳の人生に
劇的に変化をもたらせ、人生のチャンスを与えてくれたと、今でも本当に、本当に
心から感謝しています。

彼女と出会わなければ、石川 芳は今この仕事をしていないと思えるくらいです。
していないというより、こんなに自信をもってやっていられないであろうと確信しています。
この仕事を始める勇気さえ持てなかったかもしれません。

帰国後

留学した当初は日本へ帰るつもりはありませんでした。
その頃、日本や日本人が嫌いで、アメリカの自由さがまさに私にピッタリだと感じていました。
実際、留学中も外国にいる気がしないくらい自然に暮らせていましたし、
ホームシックにもならず、帰国することもありませんでした。

卒業して時間的に余裕ができた頃、両親がハリウッドに遊びにきました。
その滞在中に、母がこの先どうするのか、と尋ねてきたので、
あと半年はこのまま残ることを伝えると、
母は、私がアメリカにいればまた遊びに来られると言う理由で大賛成!
そして父からは「お父さんは帰ってきて欲しいと思っている」と言われました。
このとんちんかんな夫婦は何だ?と思いつつも、
気づかぬうちに私の中でも帰国する方向に気持ちが傾いていったようです。
そして、日本に帰って歌を教えようという閃きに繋がっていったのでしょう。

そしていよいよ帰国です。
帰国する日を日本のこれからお世話になるであろう学校へ伝えていたので、
帰国するとすぐに電話あり、面接へ出かけました。
その場で仕事が決まるというトントン拍子。

そして遂に、
石川 芳のヴォーカル講師デビューがやってきたのでした!

たくさんの人たちの助けがあったお陰です。
期待に胸を膨らませ始めの一歩を踏み出しました。

歌う喜びをもっともっと伝えたい。

石川 芳が受けた衝撃と同じような感動を体験して欲しい。

そんな情熱を持ってスタートしました。
そして、そう願ってこの仕事を続けてきました。
趣味は?と聞かれると決まって仕事と答える、そんな女でした(笑)

私が習得してきたこのボーカルテクニックは、誰にでも適応できるテクニックなのです。
それは不変の真実に基づいているからこそ可能なのです。
私はそのことを私自が身をもって体験してきているので、自信を持ってそう言えるのです。

そして、
あなたの声はもっと輝く

そう言いきれるのです。

1996年以来ヴォーカル講師をしてきましたが、あの日の衝撃を忘れていないか?
本気になって伝えたいと思っていることを伝えてきたか?
自問してみたら、どこか中途半端になっていたような気がしました。

それなら、今、この瞬間から、天職であると信じていることに
精一杯携わっていこうと決めました。

あなたは今のあなたのままでも十分に人を感動させる歌が歌えるのです。
テクニックが未熟だったとしても。
それはあなたの心が人に感動を与えるからなのです。
テクニックが人を感動させるわけではないのです。

そう話すと、生徒がとても感激してくれます。
なかには涙が止まらなくなってしまう生徒もいました。
確かなテクニックを教えると同時に、歌の本質もしっかり伝えていきたい。
石川 芳にはそうすることが求められていると、
生徒たちとの日々のレッスンの中で、そう確信しました。

そして、ボーカルの講師としてさらに成長するために、ビル・クリントン元合衆国大統領、
ミハイル・ゴルバチョフ、マーガレット・サッチャー、マザー・テレサ、ダイアナ元妃などなど、
世界のVIPに絶大な信頼をおかれたコーチ、アンソニー・ロビンズの元を訪れ、
その世界NO1.のコーチングスキルを、直接伝授いただきました。

また、少しでも生徒たちの悩みを解決する手助けが出来たらと思い、
西洋占星術とタロットを学び、占い師にもなりました。
これはすでに生徒たちに大好評のスキルとなってます。

石川 芳の人生は、たくさんの人たちから、たくさんのものを受け取ってきました。
音楽に関する面でも、それ以外の面でも。

じゃぁ、私は人に何を与えることができるのだろう?
そう考えると、これしかないと思うのです。

歌を愛して止まない人たちに、

もっともっと歌は楽しいんだよ。

もっともっと声は自由になるんだよ。

まだあなたが知らないあなたの可能性に出会えるんだよ。

そう、伝えていきたいですし、
実際に衝撃的な変化を一人でも多くの人に体験していただきたいと心から願っています。

いつの日かご縁があって、あなたに実際にお会いできる日を楽しみにしています。

あなたの歌がもっともっと輝きだしますように...。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

石川がお伝えするMEME(Maximum of Efficiency
with a Minimum Effort)「最小限の力で最大限の効果を引き出す」メソッドは、
誰でも必ず3オクターブ以上になります。

100%熱唱し燃え尽きた・・・次の瞬間!
目の前には、感動に涙しながら拍手する観客の姿が!?

そんなあなたをプロデュースすべく、日々頑張っております。
あなたにお会いできることを楽しみにしております。

目次