私が辿ってきた道
留学
小学校での1年間の教員生活で、教員はもうやり切ったという達成感があり、
教員に未練はありませんでした。
その次のステップとして、この先は歌をもっと専門的にやりたいという
気持ちになり、この頃はクラシックよりも洋楽のポップスに夢中で、
自分の歌い方を、声楽的な歌い方からポップス的な歌い方に変えようと決意します。
それから、日本のヴォーカルのスクール探しに没頭するも、
なかなか納得できるところが見つからず、気がつけば、日米教育委員会に
足を運んでいました。
日本には満足できるスクールがない、ならばアメリカへ!!
そんな流れでした。
そこで、なんとなく求めているものを提供してくれていそうな専門学校を
見つけることができました。
カリキュラムの内容も授業料も納得。
それは、MUSICIANS INSTITUTE でした。
そして、そこでまず浮上してきた問題が、英語。
声楽科はイタリア語とドイツ語が必修なので、高校卒業以来遠ざかっていて、
海外旅行の英会話がしどろもどろ...な状態。
今すぐにでもアメリカに飛んで行きたい気持ちでしたが、
ここは一旦、はやる気持ちを押さえ、1年間まず英語を勉強して留学することに
決めました。本当に待ち遠しくて辛かった1年。
そして、目的の学校から資料を取り寄せ、英会話スクールを探して、
学生ビザの取得方法を調べ、下準備OK!
さぁ、両親に話しましょう。
ということで、ある日の夕飯の時に「来年の夏に留学する」ということを話したら、
「なにバカなこと言ってるの」
以後絶句状態で相手にしてもらえず、
そのうえ母親は食事の途中なのに、家を飛び出して行ってしましました。
なんだか嫌ーな空気が我が家に流れ、残った父ともなんとなく気まずいので、
その話は続けられず...。
1ヶ月後、父親の前頭部に円形脱毛症発見。
父に教えてあげると、「知っている」とあっさり。
もしや...時間的に考えて、私が留学する話をしたせいかしら...と思い、
何も言わないけど、父も反対なんだと悟りました。
以後、留学の費用は親には頼れないと判断し、自分で捻出しなければと
バイトに励みました。
水商売以外で一番時給が良いバイト、迷わずそれに決めました。
月曜日から金曜日まではオフィスコーヒーの飛び込み営業。
営業のノウハウなんて何も教わらずに、コーヒーメーカーとコーヒーの粉を
持たされ、ターゲットのエリアに連れて行かれ、
「はい、このビルね。上から下まで全部訪問していきて」と指示されます。
(事前に下調べしているわけではないので、ドアを開けたらやくざの事務所、
なんてこともありました。危険です。)
そして、言われた通り、一部屋ずつノックして、アポなし飛び込み営業の開始です。
無謀過ぎます。
運良く中に入れてもらえたら、システムを説明して、カバンからコーヒーメーカーを
取り出し(怪しい過ぎ)、他所のオフィスでコーヒーを入れて飲んでいただく。
あり得ないと思えるバイトでしたが、これも留学の資金を用意するためと
割り切り頑張りました。
結構みなさん仕事中なのにやさしく接してくださいました。
今の石川 芳だったら、「仕事中ですから迷惑です」とか言ってしまいそうなんですが...。
それから、土日はイベント系のバイトをしてました。
休日なんて言葉、この頃は忘れていました。
若いってすばらしい!
年頃の女の子が、洋服も買わず、友達の誘いも断り遊びにも行かず、
一切の無駄使いを排除。
お金をかけるものといえば、英会話のレッスン代と英会話の教材代、
歯科治療費。CDのレンタル料。それ以外は貯金な生活。
もっと歌が上手くなりたいという私なりの夢があるから、
そんな灰色な生活も、私の中ではごく当たり前ことでした。
それよりも、この先の希望しか見えていなかったので、迷いは全くありませんでした。
この時の経験がその後の私に強く影響しているような気がします。
ある意味、強烈な1年だったのでしょう。
今振り返ると 猪突猛進という言葉がピッタリです。
親に協力してもらえないので、一人で頑張らなければと黙々と準備を
進めていましたが、同居している親も、海外から届く郵便物を目にしてしまうので、
私が一人で勝手に準備をしていると分かっていたようで、
留学を目前に控えたある日、母親がついに、
「向こうへ行って住むところはどうするの?」と切り出してきました。
はい。親が折れた記念すべき瞬間でした。
反対しても絶対きかない娘の性格を一番良く知っている両親。
反対しても行ってしまうなら、その後の生活はどうなるか心配した方が良いと
諦めてくれたようです。
その日からは留学について両親とも話せるようになったのでした。
そして、大きな希望を胸に、平和的にロスへ旅立つのでした。
まずは部屋探し。
近所を散策しがてら物件を見ていると、ある建物から男性が駆け出してきて、
「丁度空いている部屋があるから見て行かないか」と声をかけてきました。
そのアパートのマネージャーでした。
外観がとてもかわいいく、中庭に噴水があるお洒落なアパートでした。
部屋も一人暮らしでは持て余す程広く、暖炉(といっても電気)まであって即契約。
そしてしばらくは、電気、ガス、水道、電話の手続きに煩わされたりしましたが、
もうバイトをする必要もなく、心ゆくまで歌の練習が出来るようになり、まさに自由を
満喫していました。
いよいよ学校のガイダンス期間が始まり、
いろいろな書類を渡され、それを読みこなすのが一仕事、いやもっと大仕事。
そして授業が始まると、ビックリ!
衝撃の事実が突きつけられたのでした。
英語がさっぱり分かりません。
左耳からに右耳へ「のぞみ」が通過したかのような感覚。
話を聞き終わった後、すっきり爽快。なにも残りません。
たまに2、3個の単語がキャッチできれば大喜び。
1年間で「○ーオン」に60万近く投資したのになぜ??
気がつきました。
英会話スクールの外国人の先生は日本人に理解しやすいように、
非常ーにゆっくり、そしてクリアにお話ししてくださっているということを。
ガーーーーーン。ショックです。
英会話スクールで聞いて馴染んでいた英語と、ネイティブ同士の英語は
全く違う言語でした。
そうならそうと教えてくれなきゃ困るじゃない!!
英会話スクールの先生の英語は大体理解できていたので、勝手に安心して
いたのに...。ひどい! 罠だ!罠!!
しかし、ここでメゲてはいられません。
すべての授業で最前列中央に陣取り、先生の話を録音しました。
そして家に帰って全部聞き返し、分からない単語は何言ってるんだろう?
と想像しながら辞書を引き、解明して行くという地道な作業を毎日やりました。
1時間の授業を解明するのに3時間。寝る暇ありません。
ロスと言えば、1年中“夏!” ビーチにヤシの木にローラーブレイド、
そう決めつけて、夏服しか持っていかなかったら、だんだん肌寒くなってきたのです。
そうなんです、ロスにも日本ほどくっきりではありませんが、
春夏秋冬があったんです。イメージって怖いです。
ずっとサンダルで過ごせると思っていたから靴下もなく、
でも買い物に行く時間もなく、仕方なく実家に電話をして靴下も含め
冬物を送ってもらうように頼みました。
そんなこんなで、朝から夕方までは学校で授業。
家に帰ってきて練習。3~4時間、5時間くらいやるときも、ザラにありました。
その後、少しでもリアルタイムで授業を理解できるよう、翌日の学科の授業の単語の予習。
そして、その日録音した授業の解明作業。
授業が始まってからあっという間にガリガリに痩せてしました。
ゆっくりご飯食べる時間もあまりありませんでしたが、食べると眠くなって
練習できなくなると思ったので、その日やることが全て終わってから食事を
しようと決めていました。
しかし、1日中わけの分からない英語での授業で神経をすり減らし、
家に帰ってきてからは練習と予習復習。
全て終わる頃はすでに深夜で、お腹もペコペコなんだけど、もう寝たい...バタン。
という状態だったのでした。
よく生きていましたね。
ホント若いってすばらしい!
英語力は3ヶ月ごとに少しずつ楽になっていくのが実感できました。
なんとなく慣れてくるものなんでしょうね。
そして、肝心の授業は日本にはない充実したものでした。
発声法に関しても一貫したものがあって、それをプライベートレッスンで
身につけていくのですが、今まで私が教わってきたことの根幹が崩れ去りました。
「お腹を押すな」と注意されるのです。
「力をぬきなさい」とも言われます。
もうめちゃくちゃパニックです。
お腹で支えず、どうやって声をだすの??
力なんて全然入れてないのに、なんで注意されるの??
でも、今までの歌い方を変えようと決意してハリウッドまで来ているわけですから、
ここは取りあえず、先生に言われるままやってみようと覚悟を決め、
ただひたすら黙々と練習をしました。
最初は上手くいかず、歌っても納得できない悲しい時期もありました。
今思えば、古い歌い方から新しい歌い方へシフトチェンジしていく過程で、
どちらにしても中途半端な状態の時期だったのだ思います。
しかし、この発声のメカニズムを学ぶことは、発見の嵐でした。
“喉をひらく”とか“声帯のストレッチ”とか”軟骨、筋肉の知識”
“共鳴の仕組み”や“ビブラートの仕組み”などなど、
私にとっては、もうヨダレが垂れるほど興味深い内容でした。
今でこそ、発声のメカニズムについて喋りだしたら止まらない私ですが、
当時はカリキュラムは全て英語ですし、医学用語がバンバン出てきて、
私が日本から持っていった英和辞書には載っていない。
何度調べても載っていない。
(一度調べて載ってなければないのに...諦められず何度も調べる)
アメリカ人に聞いても「知らない」と言われ、
アメリカ人も分からない英単語って何なんだーと絶望したりもしました。
まぁ、喉頭蓋とか甲状軟骨とか輪状甲状筋と日本語で言われても分からないから
仕方ないか...。と今では思います。
この内容を理解するために、カリキュラムと辞書をいつも持ち歩いて、
授業の合間に時間があれば、いつでもこの解読作業をしていました。
もちろん家でもめちゃくちゃ格闘していました。
辞書に載っていない単語は英語のまま理解する。
そんな技も身につけました。ほとんど英語のまま理解しましたが...。
この学校ではパフォーマンスの指導も充実していて、とても刺激的でした。
歌うことってこういうことなんだー
と、今でもその精神は私の中で大事なものであり、
石川 芳の歌に対する基本的なスタンスはこの時育まれたものなのです。
歌うってこういうことなんだ...分かっているようで身に付いていない
大事なものを根付かせてもらえた気がします。
「伝える」
それがすべてです。
そして、頑張った甲斐があって、めでたく首席で卒業することができました。
卒業する頃はもう自分の歌がかなり変わったことが実感できるレベルになり、
感激していました。
ここで教えてもらったテクニックは本当に凄い、これ以外にはないと思える程
インパクトのあるものでした。

喉がひらいている...
力が抜けている...
声帯をストレッチできる...
声が自由になっている...
信じられない感覚が芽生えました。
すると、ある日突然、
“ピカッ”と稲妻が落ちてきたように、私の中に閃光が走りました。
それは一瞬でしたが、石川 芳のその後の人生を決定づけるものすごい衝撃でした。
「あっ、私はこれを日本に帰って伝えなきゃっ」
まさに天から使命を授けられた瞬間でした。
それまで、歌がうまくなりたいという一心でひたすら頑張ってきたので、
これを人に教えるなんて全く考えたことがありませんでした。
考える余裕が無かったと言った方が正しいかもしれません。
でも、思い起こせば、私は音楽の楽しさ、歌の楽しさを生徒と分かち合うことが
大好きでした...。
中学での教育実習の時も、小学校での教員時代も、100%充実した時間を過ごしていたし
石川 芳にとって、とても自然でやりがいを感じる魅力的な仕事でした。
“歌”と“教える”というふたつの大好きなことが運命的に出会い、
ひとつに結びついた決定的瞬間でした。
この後、ヴォーカル講師というゴールを目指して猛ダッシュするのでした。
人に教えるにはどうしたらいいんだろう?
きっと講師になればいいんだ。
じゃあ、講師になるにはどうしたらいいんだろう??
あっ、そうだあの人のところへ行ってみよ!!
あの人とは、卒業が迫ったある日、学校に行こうと家を出たところ、
アパートのマネージャ―がオフィスから私を呼びました。
そして、そこに行ってみると、日本人の男性が二人いて、
私の部屋の隣に越してくる日本人だと紹介してくれました。
二人の男性のうち年配の男性が「MUSICIANS INSUTITUTEに通っているの?」
と聞いてきたので、「そうですけど、なんでその学校を知ってるんですか?」と
驚いて尋ねました。
その男性はニヤッと笑って「ちょっと知っているんだよ」と答えてくれました。
私は遅刻しそうだったので、「宜しくお願いします」と挨拶をして切り上げ、学校へ走りました。
その日本人はなかなか隣へは引っ越してきませんでした。
しかし数日後、驚くべき場所で再会したのでした。
それは 私が通っている学校。
あれ?この前のおじさんだ。なんで学校にいるの?????
実は、そのおじさんは日本の楽器屋の相談役でした。
その楽器屋は日本で音楽学校も経営していたので、
私が通っていた学校を買収するため現地に来ていたのです。
「アパートでお会いしたの覚えてますか?」とお聞きしたら、
「あーあの時の...」と覚えていてくださり、
それから結構気さくにおしゃべりさせてもらっていました。
相談役にもなると実務をすることはないので、
現地の学校にいてもそれほど仕事もなかったのでしょう。
日本人の学生とよくおしゃべりに興じていました。
その中でも、私は一度社会人を経験していたり、留学前の無謀な飛び込み営業で、
小さいながらも会社の社長さんたちと話す経験をしていたので、
その相談役と会話することも自然にできたのです。
しかし、高校卒業したての人だと、中高年の偉い人と話すのは苦手のようで、
「なんでそんなにしゃべれるの?」と不思議がられたほどでした。
そんな偶然の出会いがあり、
そうだ!この人にお願いしてみよ!!と、ちょっと一般の学生では近付き難い
重々しいドアの相談役室へ突撃。
得意のアポなしです(笑)。
ドアをノックすると、日本人男性の秘書と思われる人が現れ、
・石川
「○○さんいらっしゃいますか?」
・男性
「ちょっと待ってくださいね」
そして、相談役が現れました。
・相談役
「どうしたの?」
・石川
「あの、私ヴォーカルの講師になりたいんですけど」
といきなり言ってしまいました。単刀直入すぎです。
するとビックリするほどすんなり
・相談役
「じゃぁ、ついでの時でいいから(秘書に)履歴書届けておいて」
あー、ウッカリしてました。
・石川
「履歴書よね...すっかり忘れていました。でも常識だわ。
突撃することに頭がいっぱいで...。着の身着のまま訪問してしまいました。
すみません。」
・相談役
「日本に帰ったとき担当に渡しておくから連絡が行くと思うよ」
ほぼ確実な手応えを得られ、ヴォーカル講師になるための最強のツテを手に入れたのでした。
その後、ヴォーカルの先生にそのことを話すと、
「それなら、これからは教える勉強もしましょう」と、とても積極的に協力してくださり、
私がレッスンに行く日は、他の生徒さんが受けているレッスンを見学させてもらい、
レッスンが終わるたびに先生が「この生徒は××だから○○するの」という具合に教える
秘訣を伝授してくださいました。
そんな風に、自分のためのテクニックと、教えるためのテクニックを学んでくることが
できたのでした。
これはとてもラッキーなことだったと思います。
こうして石川 芳が講師になるための準備は着々と進んだのでした。
そして、帰国の1ヶ月程前、いつも通りレッスンに行った日のこと。
レッスンが終わるころ、先生が
「あなたの声は完成したわ」
「これやってみて」
といつもと違う初めてのスケールのデモンストレーションをしてくれました。
それに続いて私も歌ってみると、特に難しくもなく自然にこなせました。
すると、先生が
「ほらっ、あなたの声はもう(最高音から最低音まで)繋がっているでしょ。
完成したわよ」
と、石川 芳の手を握りしめて、号泣し始めました。
こうして私の3オクターブのミックスボイスは完成したのでした。
私は今まで淡々とレッスンや練習をこなしてきたので、完成したと告げられたときも
意外な程淡々としていて、先生の感動とは正反対のリアクションでした。
そして、先生が落ち着いてから私に話してくださいました。
先生が教えた生徒で声が完成したのは私で3人目であるということ。
そして、以前の二人は先生の恋人だったということまで。
なので、個人的な恋愛感情がない間柄で声が完成した生徒は、
石川 芳が初めてだったのです。
石川 芳が今あるのは、留学して良いものを学ぶことができたということが
とても大きかったと思っています。
そして、このヴォーカルの先生MS. Murrayとの出会いが石川 芳の人生に
劇的に変化をもたらせ、人生のチャンスを与えてくれたと、今でも本当に、本当に
心から感謝しています。
彼女と出会わなければ、石川 芳は今この仕事をしていないと思えるくらいです。
していないというより、こんなに自信をもってやっていられないであろうと確信しています。
この仕事を始める勇気さえ持てなかったかもしれません。
帰国後
留学した当初は日本へ帰るつもりはありませんでした。
その頃、日本や日本人が嫌いで、アメリカの自由さがまさに私にピッタリだと感じていました。
実際、留学中も外国にいる気がしないくらい自然に暮らせていましたし、
ホームシックにもならず、帰国することもありませんでした。
卒業して時間的に余裕ができた頃、両親がハリウッドに遊びにきました。
その滞在中に、母がこの先どうするのか、と尋ねてきたので、
あと半年はこのまま残ることを伝えると、
母は、私がアメリカにいればまた遊びに来られると言う理由で大賛成!
そして父からは「お父さんは帰ってきて欲しいと思っている」と言われました。
このとんちんかんな夫婦は何だ?と思いつつも、
気づかぬうちに私の中でも帰国する方向に気持ちが傾いていったようです。
そして、日本に帰って歌を教えようという閃きに繋がっていったのでしょう。
そしていよいよ帰国です。
帰国する日を日本のこれからお世話になるであろう学校へ伝えていたので、
帰国するとすぐに電話あり、面接へ出かけました。
その場で仕事が決まるというトントン拍子。
そして遂に、
石川 芳のヴォーカル講師デビューがやってきたのでした!
たくさんの人たちの助けがあったお陰です。
期待に胸を膨らませ始めの一歩を踏み出しました。
歌う喜びをもっともっと伝えたい。
石川 芳が受けた衝撃と同じような感動を体験して欲しい。
そんな情熱を持ってスタートしました。
そして、そう願ってこの仕事を続けてきました。
趣味は?と聞かれると決まって仕事と答える、そんな女でした(笑)
私が習得してきたこのヴォーカルテクニックは、誰にでも適応できるテクニックなのです。
それは不変の真実に基づいているからこそ可能なのです。
私はそのことを私自が身をもって体験してきているので、自信を持ってそう言えるのです。
そして、
あなたの声はもっと輝く
そう言いきれるのです。
1996年以来ヴォーカル講師をしてきましたが、あの日の衝撃を忘れていないか?
本気になって伝えたいと思っていることを伝えてきたか?
自問してみたら、どこか中途半端になっていたような気がしました。
それなら、今、この瞬間から、天職であると信じていることに
精一杯携わっていこうと決めました。
あなたは今のあなたのままでも十分に人を感動させる歌が歌えるのです。
テクニックが未熟だったとしても。
それはあなたの心が人に感動を与えるからなのです。
テクニックが人を感動させるわけではないのです。
そう話すと、生徒がとても感激してくれます。
なかには涙が止まらなくなってしまう生徒もいました。
確かなテクニックを教えると同時に、歌の本質もしっかり伝えていきたい。
石川 芳にはそうすることが求められていると、
生徒たちとの日々のレッスンの中で、そう確信しました。
そして、ヴォーカルの講師としてさらに成長するために、ビル・クリントン元合衆国大統領、
ミハイル・ゴルバチョフ、マーガレット・サッチャー、マザー・テレサ、ダイアナ元妃などなど、
世界のVIPに絶大な信頼をおかれたコーチ、アンソニー・ロビンズの元を訪れ、
その世界NO1.のコーチングスキルを、直接伝授いただきました。
また、少しでも生徒たちの悩みを解決する手助けが出来たらと思い、
西洋占星術とタロットを学び、占い師にもなりました。
これはすでに生徒たちに大好評のスキルとなってます。

石川 芳の人生は、たくさんの人たちから、たくさんのものを受け取ってきました。
音楽に関する面でも、それ以外の面でも。
じゃぁ、私は人に何を与えることができるのだろう?
そう考えると、これしかないと思うのです。
歌を愛して止まない人たちに、
もっともっと歌は楽しいんだよ。
もっともっと声は自由になるんだよ。
まだあなたが知らないあなたの可能性に出会えるんだよ。
そう、伝えていきたいですし、
実際に衝撃的な変化を一人でも多くの人に体験していただきたいと心から願っています。
いつの日かご縁があって、あなたに実際にお会いできる日を楽しみにしています。
あなたの歌がもっともっと輝きだしますように...。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
石川がお伝えするMEME(Maximum of Efficiency
with a Minimum Effort)「最小限の力で最大限の効果を引き出す」メソッドは、
誰でも必ず3オクターブ以上になります。
100%熱唱し燃え尽きた・・・次の瞬間!
目の前には、感動に涙しながら拍手する観客の姿が!?
そんなあなたをプロデュースすべく、日々頑張っております。
あなたにお会いできることを楽しみにしております。

ヴォーカル講師
石川 芳