私が辿ってきた道
音大時代
最初の1年は志望校ではなかったですし、翌年もう1度受験するつもり
だったので、なんとなく馴染めず、楽しくなかった記憶があります。
そして、一番大事な声楽の先生が、とても意地悪な人で苦労させられる
運命が待っていたのでした。
この池田先生(仮名)は、とてもプライドが高く、勘の鋭い人で、
学校以外でレッスンに通っていることを察し、軟禁状態にされることも数回ありました。
1年の時は学校以外に受験用のレッスンも別に通っていました。
それは大学の先生には内緒です。
学校のレッスンのあとに受験用のレッスンの予定を入れていると、
本来は自分のレッスン時間が終われば帰っていいはずなのに、
「ありがとうございました」 と挨拶して帰ろうとすると、
「待ちなさい!次の人のレッスン見なさい」 と言われ、困っていると、
「何か用があるの?」 と睨まれ、
「あぁぁ、はい」 としどろもどろに答えると、
「あなたは声楽を勉強しに来ていて、その声楽のレッスンより大切なものが
他にあるの?ないわよね。そこにいなさい」
と言われ帰れず、次の人のレッスンが終わったので、一緒に帰ろうとすると、
「次の人のレッスンも見なさい」 とさらに軟禁され、
次にレッスンを受ける予定の先生に電話をかけに行くことさえ許されず、
という意味のないイジメに何度も遭いました。
その日の池田先生(仮名)のレッスンが終了した時点でようやく解放され、
急いで次の松本先生(仮名)に電話をかけ、涙声で事情を説明すると、
「いいわよ、今からいらっしゃい」 とおっしゃってくださり、
辿り着くと、何も言わず手作りのサンドイッチを出してくださる本当にやさしい松本先生(仮名)。
ますます、鬼のような大学の池田先生(仮名)にはついていきたくないと思うのでした。
音大の勉強と受験対策というのは違って、もともと落ちこぼれの石川 芳には
両方を両立させることはかなりの負担で、次の年も志望校を受験したものの不合格。
人生は終わった。。。
真剣にそう思いました。
親に何て言おう...先生に何て報告しよう...
電車の中でずっと泣きました。
絶望と孤独の大雨が私にだけ降っているような、そんな帰り道。
私ってやっぱり才能ないんだ...。
しかし音大の成績は手を抜かなかったのでかなり良いという現象が起きました。
もっと手を抜いていれば逆の結果になっていたかも...なんて思ったりしますが。
その後、そのまま何もなかったかのように2年に進級。
それからは、私自身がふっ切れたこともあり、まわりのお友達とも、
しっくりつきあえるようになりました。
短大だったので2年で卒業。
その後同じ大学の専攻科に進み1年間さらに勉強しました。
専攻科に進んだのは7名。
その中でも石川 芳は特に飛び抜けた存在というわけではなく、
可もなく不可もなくという中途半端な存在でした。
この最後の1年は、本当に充実した1年でした。
それは、入学以来2年間嫌々つき合っていた意地悪な声楽の池田先生(仮名)から、
(専攻の先生と合わないというのは致命的なことなんです)
とても素敵な歌声をお持ちの性格の明るい宇津井先生(仮名)に変更したことでした。
宇津井先生(仮名)は2年の時のドイツ歌曲の授業の担当で、私がこの先生の歌声に
惚れてしまい、専攻科進学のタイミングでお願いしました。
すると、宇津井先生(仮名)はとても喜んでくださり、事務手続きの仕方、
池田先生(仮名)への対応の仕方を親切に教えてくださり、見事シフトチェンジに成功。
敵に悟られぬよう手際よくことを済ませることが大事で、音大ということろは
かなり閉鎖的な世界なので、こういうことは御法度なんです。
私の知り合いは先生の変更を事務に申請中に元の先生にバレて、阻止されたあげく、
その後いじめられるという悲惨な運命を歩んでいました。
私も学内で元の先生に会わないよう、細心の注意を払って行動していました。
元同じ門下だった知り合いが、意地悪な池田先生(仮名)が門下生の前で、
私の悪口を言っているということも聞きましたが、
性格が明るくて素敵な歌声の宇津井先生(仮名)のレッスンを受けられるようになり、
今までになく張り切って練習やレッスンができるようになったので、そんなことは
全然問題ありませんでした。
しかし、運命というのは恐ろしい。
1年間、細心の注意を払って行動してきたのに、最後の最後、声楽の修了試験の日。
出番も近づき、試験会場へ向かう途中の廊下で、
なんと、池田先生(仮名)とバッタリ。しかもそこには先生と私だけ。
先生は一瞬立ち止まって、振り返り、ものすごい形相で私を睨み、
ツカ・ツカ・ツカ
と近づいてきます。
「あなたね、自分が何したか分かってるの?
こんなことされたの私人生で初めてよ。しかも私が一番嫌いな人に変えるなんて
さぞ上手くなったことでしょうね。どれくらい上達したか聴かせてもらうわ」
1年間溜めていたものをようやく吐き出したという感じで、
言いたいことを言って、またツカ・ツカ・ツカと試験会場へと去って行きました。
いろいろ言われても、私としては充実した1年を過ごせたと言う満足感がったので、
全然気になりませんでした。
むしろ、1年も経つのに、昨日のことのように覚えていて、なんて執念深い人なんだろうと
感心させられました。
この年もう一つ印象深い出来事がありました。
それは中学での教育実習。
当時、人生で一度はやりたい職業、それが中学の教員でした。
中学時代といえば、多感な時期。
私がその頃関わった先生たちが酷かったことで失望したという経験があり、
私が中学校の先生にならなければ...という勝手な思い込みがありました。
実際、教育実習に行ってみると、まわりの教育実習生に比べて、
全てにおいてスムーズにこなせてしまう自分がいるのです!
生徒たちともどんどんコミュニケーションがとれるし、
他の実習生よりはるかに生徒たちに愛情を感じているし、
授業は初めてとは思えないくらい順調で、毎日なんでこんなに楽しいのだろう...
今まで落ちこぼれだった私が、まるで“水を得た魚”のような状態でした。
石川 芳が進むべき道・・・
それを心のどこかに、そして確かに刻んだ瞬間だったのでした。
教員時代
晴れて専攻科も修了し、もう学生ではなくなりました。
そして、近隣の市の教育事務所へ書類を持って出かけ、その場で軽く面接。
翌日教育事務所から電話が入り、産休に入る先生がいる小学校の音楽の教員に
なることが決まりました。
喜びと同時に、中学校じゃないんだ...という残念な気持ち。
しかし、それから1年間、石川 芳とわんぱく小僧たちとの奮闘が始まるのでした。
その小学校は、元気が有り余った、よく言えば子供らしい子供たちばかりの
宝箱の様な場所でした。
休み時間は外で元気に遊び、帰ってくると汗びっしょり。
もともと子供が大好きだったので、子供たちの扱いはなぜか慣れていました。
大好きな音楽を元気な子供たちと毎日やれるだけで楽しいのに、その上給料が
もらえるって、なんてラッキーなんだろう...と信じられない感覚でした。
1日24時間、1年365日、頭の中は子供たちのことばかり。
子供たちのためなら、苦手な早起きも辛くない。
朝はまるっきりダメな私が、毎日朝5時に起き6時過ぎに家を出て、7時に学校に行く、
そんな生活でした。
学級崩壊という言葉がまだなかった時代に、学級崩壊を経験できたのは、
今となっては貴重な思い出です。
前の授業の終業ベルで音楽室になだれ込んできて、石川 芳のまわりに集います。
そして、なんだかんだとおしゃべりしてくれて、とってもかわいい。
しかし、始業のベルが鳴った瞬間、パーっと思い思いの場所に散らばり、
それまでかわいかった子供たちが豹変していくのです。
プロレスを始める子、かくれんぼを始める子、お絵描きを始める子、
楽器をめちゃくちゃに鳴らし始める子、音楽室が野獣の園に変わってしまうのです。
単にお勉強したくないという素直で短絡的な反応なのですが、
本気で、4階の音楽室がいつか落ちる と心配でなりませんでした。
育休を取っていらした先生が復帰なさるので、1年でこの学校を去ることに
なるのですが、感動をしない日はなかったと言える程、毎日子供たちから
たくさんの笑顔と感動をもらいました。
教員としては全然未熟でしたが、子供たちが大好きと言う気持ちと、
音楽の楽しさを感じて欲しいという情熱だけは溢れていたので、
子供たちにもそれが伝わっていたのでしょう。
自分で言うのもなんですが、かなり人気者でした。
全力で毎日を駆け抜けた そんな貴重な1年。
この小学校で関わった子供たち、そして子供たちとの想い出は、
石川 芳の人生の大切な宝物で、今でもキラキラ輝いています。
そして、この1年でさらに深い確信を得ました。
それは、音楽の楽しさを伝えることが私の幸せなんだ!!
この気づきを胸に人生の新たな模索が始まるのでした。
アメリカに夢中時代
教員を離任してまずやったこと、それはアメリカへの一人旅でした。
中学の音楽の授業のなかで、組曲「大峡谷(グランドキャニオン)」を
鑑賞した時、その音楽を聴きながらグランドキャニオンを想像していたら、
ここにいつか行こう!という決意が生まれました。
そしてその日が来たのです。

人生の中で1度は行ってみたかったグランドキャニオン。
当時の私にしては十分すぎるほどボーナスももらえたし、時間もある。
英語なんて全く喋れず、旅行会話の本を片手に珍道中でしたが、
グランドキャニオンはやっぱり感動でした。
一秒ごとに、そして一歩歩みを進めるごとに変わるその表情は圧巻。
これをきっかけにアメリカに夢中になっていきます。
帰国後、アメリカに行きたい病を煩いつつ家事手伝い生活。
数ヶ月後、あるテレビ番組でわたしの好きなDEF LEPPARDの特集を
していたので見ていました。すると番組の最後に、
DEF LEPPARDのNYライブに3名様ご招待 という告知がでました。
大好きなDEF LEPPARDに大好きなアメリカ。
もちろん速攻応募しました。

結果、見事“当選”!!
前回の旅行から丁度半年で、再びアメリカに行けたのでした。しかも無料で。
DEF LEPPARDのライブ前日は、招待してくださったレコード会社の方が、
プリンスのライブに連れて行ってくださいました。
NYでプリンスのライブなんて、これもかなり刺激的でした。
肝心のDEF LEPPARDライブ当日は、バックステージに私たちの控え室もあり、
サウンドチェックから見学、メンバーとの対面もあり、
人生でこれほど緊張したことはないだろうと言うくらい緊張しました。
本番のライブも大盛り上がりで楽しい想い出になりました。
帰国後は夢うつつな日々を過ごしますが、間もなく自分の人生を
さらに変える決断に向かって行くのでした。