私が辿ってきた道
あっ、
喉がひらいている…
力が抜けている…
声帯をストレッチできる…
声が自由になっている…
信じられない感覚が!
気がつけば、ミックスボイスで3オクターブの声域が完成!
すると突然、
“ピカッ”と稲妻が落ちてきたように、私の中に閃光が走りました。
それは一瞬でしたが、石川 芳のその後の人生を決定づけるものすごい衝撃でした。
「あっ、私はこれを日本に帰って伝えなきゃっ」
まさに天から使命を授けられた瞬間でした。
これが、石川 芳がヴォーカルの講師を始めたきっかけです。
私はこの職業を天職と感じて、1996年から講師を続けてきました。
本当にありがたいことに、たくさんのご縁に恵まれ、1000人を超える
生徒さんの指導をさせていただきました。
今までも、そしてこれからも、ひとりでも多くの生徒さんに、歌の楽しさを
もっともっと深いレベルで感じてもらい、私が受けた衝撃と同じような感動を
一人でも多くの生徒さんに体験して欲しい、そのための方法を伝えることが、
石川 芳の人生だと思っています。
そして、このことを少しでも伝えられ、生徒さんに感動してもらえた時、
石川 芳は最高の幸福感で満たされるのです。
目次
幼少時代

物心ついた頃にはオモチャのマイクを片手に家族の前で歌を披露するのが
日常の光景となっていました。
本人はなりきり度100%で家族に大ウケ。
我が家で大好評のエンターテイメントでした。
毎晩のように「歌って」とリクエストを受け、子供ながらにも、リクエストには
100%答えるというサービス精神を発揮していました。
そして大ウケした最後に家族が熱唱したチビシンガーに贈る言葉は
「いつ聞いても音痴だね~(爆笑)」
ピッチのコントロールなんて知らなかったのですから当然です。
幸いチビシンガーには「音痴」の意味が分かりませんでした。
分かっていたら大変なことです。
きっとトラウマになってしまって、人前で歌うことにコンプレックスを持って
しまったかもしれないですし、学校に上がれば、「音楽なんて大嫌いだー」
なんて言っていたかもしれないですし、この職業に就くこともなかったかもしれません。
そう考えると、意味が良く分からなくてホント救われたのでした。
今考えると、家族が大笑いしていたのは、ものすごい音痴なのに、
熱唱するその姿が大ウケしていたと推測できるのですが、
当時はそのリアクションの大きさに、「私はきっと素晴らしいんだ」と
勘違いしていたわけです。
この頃から「自分勝手なポジティブ思考」は芽生えていたんですね。
あー、なるほど。
なにはともあれ、「チビシンガー無知の勝利」
ちなみに最初に買ってもらった記念すべきレコードは、当時大ヒットしていた
♪「およげ!たいやきくん」
幼稚園入園後まもなく、お友達の家に遊びにいくと、
初めて目にする威厳のある輝きを放っている大きくて素敵なものがありました。
石川 芳は子供ながらに一瞬でそのものの虜になってしまいました。
それが「ピアノ」の出会いでした。
その日から「ピアノ習いたい」「ピアノ習いたい」と駄々をこねまくる日々が始まります。
「どうせ続かないんだからダメっ」とスパっと否定され、相手にしてもらえず、
しかし、食い下がる、食い下がる。
半年くらい粘ったでしょうか?
「じゃぁ、習いに行ってごらん」とやっと親が折れてくれました。
しかし、どうせ続かないから、という理由で、親戚の家から誰も使っていない
オルガンをもらってきてのスタート。

あまりに熱心に練習する姿に親が感動し、
「この子は将来ピアニストになるかもしれない」と勝手に勘違いし、
ピアノを買ってもらえることになりました。
ピアノを習い始めるとすぐピアノが我が家にやってきました。
念願のピアノが。。。
すると、願望が達成されて、全然練習しなくなりました。
友達と遊ぶことで忙しいですから。
石川 芳の目的はピアノを買ってもらうことであって、
ピアノを習うことではなかったのです。
子供なのでその違いが分からず、ピアノを習えば、
ピアノを買ってもらえると理解していたんでしょうか。
言い出したらきかない頑固な性格と、熱しやすく冷めやすい性格も
この頃から立派に確立されていました。
しかしこの先、練習しない私と母のバトルは10年続くのでした。
小学校時代
小学校に上がると、友達とピンクレディーの物まねに熱中しました。
ちなみに、私はミーちゃん派。友達は上手い具合にケーちゃん派。
当時は役割分担が上手く行かないと騒ぎになる一大事でしたから、
平和に解決できる友達がいてラッキーでした。
そして、ピンクレディーのレコード(CDじゃないのよー)を何枚か持って
いたのですが、ほとんどは、父がパチンコで取ってきてくれたという、
教育上好ましくない代物でした。

高学年になると、
歌本に載っている曲は演歌まで全部歌えるという特技をもち始めました。
とにかく歌が大好き。
テレビでアイドルが新曲を初めて披露すると、今のようにビデオやDVDが
なかったので、ものすごい形相でテレビにかじりつき、1回聞いただけで
1コーラスだけならほぼ完璧に歌詞もメロディーも覚えてしまいました。
今思うと、ものすごい集中力です。
子供って凄いなーと思います。
そんな集中力が今また蘇ってくれたらスゴイことになるんだけど...と
妄想に耽ってしまいます...。
中学校時代
この頃はアイドル黄金期。
石川 芳のアイドルは「聖子ちゃん」(古過ぎて分からない人ごめんなさい)
そして、親友は「明菜ちゃん」派。
ここでもまた上手く別れました。
この頃は、四六時中歌を口ずさんでいましたねー。
気分的には、1日24時間、1年365日歌ってる。
もうまさに、歌が酸素みたいな感覚です。
そして、歌手になってデビューしたいなんて野望を抱き始め、
オーディションなんてものに、チャレンジしたのもこの頃。
東京の会場まで審査を受けに出かけたりして、ちょっとドキドキ感を味わったり、
ほんのり夢をみたりしていましたが、残念ながら幸運の女神は
私には微笑まなかったんですね(笑)
石川 芳の人生は、この先に訪れる天職との出会いに向かって
レールが敷かれていたとしたら当然の結果ですね。
なんて負け惜しみを少々言ってみたり、
この頃はまだ美貌は開花していなかったのよねーなんて図々しいことを
言ってみたりして... さぁ、次へ!
高校時代
幼稚園から習い始めたピアノを中3で一度やめていたのですが、
時間に余裕ができたので、ピアノのレッスンを再開します。高1の秋。
この時にピアノを習いに行った近所の音大生、寺本先生(仮名)との出会いが
石川 芳の人生の転機でした。
実は、寺本先生(仮名)が音大受験を勧めてくださり、いろいろ段取りをしてくださったのです。
まさに人生の転機での大きな出会いでした。
その直前の高校での進路面談
高校の担任チャック先生(仮名)
「進路の希望は?」
石川
「エヘッ、お嫁さーん」
チャック先生(仮名)
「じゃぁ、良い旦那さんと結婚するには、
良い大学に行って、良い会社に就職しないとダメなんだよ」
当たっているような当たっていないような、とりあえず、進路指導的なことを
教えてもらいました。
(ふーん、なんだかピンとこないわねー、大学進学して就職なんてしたら
お嫁さんに行くの遅くなっちゃうし、高校3年生の次はお嫁さんだからね。)
チャック先生(仮名)は、こんなファンタジーな世界を彷徨っている女子生徒に
やさしくつき合ってくれた包容力のある先生でした。
しかも、彼氏いないこと知っていたくせに。(笑)
こんな私だったのですが、そのアドバイスで、音楽で進学できる希望が生まれたのでした。
「進路希望はお嫁さーん」のまま高校卒業したら大変なことになっていたかもしれません。
その前に両親が慌ていたかもしれませんね。
ピアノは練習嫌いだったので、あまり上手くなかったのですが、やっぱり歌は大好き♪
それから、全く縁のなかった未知の世界へ飛び込んでいくのでした。
その後の石川 芳の生活
寺本先生のレッスンを週に1回
声楽のレッスンを週1回
ピアノのレッスンを週1回
ソルフェージュのレッスンを週1回
音大受験に高校の勉強は何も役に立たず、なんだか無駄に感じつつ、
留年しないことを目標にぎりぎりで乗り切ることに決め、と言うより、
ぎりぎりで乗り切るのが精一杯。
家に帰っては練習しなければいけないことが山盛り。
土日祝日はレッスンで潰れてしまう生活。
友達と遊びに行けないなんてことは大した問題ではなかったのですが、
音大を目指して本格的にレッスンを始めると、同じく音大を目指して
頑張っている人たちと出会います。
みんな歌もピアノもものすごく上手で、“何なんだこの世界は...”と
カルチャーショックを受けました。
音大を目指す人たちは、子供の頃からそれを視野に入れてレッスンして
いるので、普通にピアノのお稽古に通っているレベルと違うんですね。
私なんて、その普通のピアノのお稽古さえ、ろくに練習していかなかった
タイプなので、先生にいつも手や肩をビシビシ叩かれるやる気のない生徒
でしたから、その差はもう悲劇的。
さらに、音大付属の中学、高校もあって、凄い人たちがゴロゴロいる...
レベルというか次元の違いにビビりました。
そうやってスタートラインの違いをまざまざと見せつけれ、自分の存在が
とても小さく見えてしまう、そんな時期でした。
先生たちからも「今からだと厳しいですね」と逆太鼓判をおされ、
絶望的なハンディを背負いながら、この差を受験までの1年半で埋めなければ
ならないという、どう考えても無謀な現実に向かってスタートするのでした。
何をやってもスタートが遅かったので、落ちこぼれ。
練習していっているのに、上手く出来ず、
「音痴っーー」と怒鳴られることしばしば。
それはそれは、富士山の大噴火のように激しいものでした。
何がショックかって、サボっていて出来なかったら怒鳴られても納得できるのでしょうが、
出来ないところが分かった上で1週間練習してレッスンに行っているのに、
やっぱり出来なくて怒鳴られる...
これはショックです。
やったのに出来なかった。。。
ある時は「音痴ぃーー、もう帰れーーー!!」とホントに追い出されたことも...。
レッスン中は絶対泣きませんでした。
でも帰りの電車の中では、それまでこらえていたものが一気に溢れ出して、
メソメソ泣きながら帰ったことも1度や2度ではありませんでした。
そう言えば1度だけ、やさしいおばさんが「どうしたの?」と声をかけてくれたことが
ありましたねー。とても嬉しかったのですが、何も答えられず...。
石川 芳のように怒鳴られている生徒さんを見たことがありませんでした。
しかし、のちに仲良しになる同じ門下生の相田さん(仮名)も、石川 芳と同じ、
またはもっと厳しい試練を受けていたと知るのです....(笑)
この相田さん(仮名)とは今でも友達です。
同じ落ちこぼれ同士相通じる部分があるのでしょうか(笑)
この時期は声楽の先生から「チーパッパな音楽は聴くな」と言われ、
それを忠実に守っていいたので、ポピュラーミュージック鎖国時代でありました。
唯一長渕剛だけはこっそり聴いていましたが。
音大の受験というのは、日程が長くて、
学科試験1日~2日、専攻実技の試験1日、副科実技の試験1日、面接という具合。
そして、意地悪なことに、音大は併願できないように、受験日が重なっているんです。
なんて心が狭いのでしょうか。
志望校を決め、希望に胸を膨らませ、いざ受験!
見事、志望校に不合格・・・。
あとで、わかったことですが、英語が5点足りなかったそうです。
原因が英語ってなに?? しかもあと5点って...。泣きました。
受験で知り合った友達が浪人を決めたこともあり、私も浪人しようと決めかけて
いたところ、ピアノの先生のアドバイスで、2次募集のあるところにとりあえず入学して、
そして来年また志望校を受験するという解決策をとりました。
このピアノの坂井先生(仮名)は、私はクラッシックより、ポピュラー系の道に
進んだ方が合っていると見抜いていらしたようで、志望校を決める際に、
そのようなアドバイスをしていただいたこともあったのですが、気が進まず。
そして、浪人するか...というときも、
きっと、その後の私の運命をなんとなく感じ取っていらっしゃったのでしょう。
とても適切なアドバイスをいただいたと今となっては感謝しています。
とりあえず、その後3年間通うことになる昭和音楽大学短期大学部に
入学するのでした。